"http://www.w3.org/TR/xhtml1/DTD/xhtml1-transitional.dtd" 星の・蝦夷民話
 蝦夷地は 北海道の古名だけど 古い昔の話には丁度いい・・・かなた
星の紋章
(星の)
蝦夷と浴民話
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 このサイトは 北海道 蝦夷地の昔話を私の勝手で作り変えてみました。初めは湯浴澤の百年ほど前のはなしで その後は阿寒とか室蘭とかのおはなしです・・・・遙 彼方
《 星の想い 》
 
蝦夷とアイヌ・・・

 蝦夷には昔からアイヌが暮らしていた
 和人が暮らして 三百年ほどになるが
 その前の事は アイヌの神話の話です
 ここの昔話は ちょつと前の事だべさ
           遙 彼方

《蝦夷民話・目次》
ひょうたん沼の狐 緋ドジョウの話 お茶の水物語
マリモの話 鳴き砂と鯨岩 準 備 中

01 ひょうたん沼の狐
 また チョコット昔の話しばすっから まぁ 気楽に聴いてくれやぁ  湯浴澤は石狩川の河口から、真直ぐ30キロ位東にあって、南側は低い山で マオイや幌内の山続きで、北側は低地泥炭地帯で、何処まで行っても泥炭ばっかりで、水に浸かったら泥沼みたいになって、日照になったらパッサパサの泥の枯草で、乾燥させてストーブにくべても燻(くすぶ)るばっかりで、開拓農家泣かせの不毛の土地だったべさ。そんな湿原の原野でも、暗渠を掘って客土をして、開墾して野菜を作ったり田圃にしたり、開拓農家は死に物狂いで働いたんだってさ・・・
今のひょうたん沼公園  そんな 原野の中に ひょうたん沼はあったのさ、湯浴澤の西の踏み切りを北に行くと西新橋が在って、そっから そのまんま真直ぐ北へ一キロほど行ったら、周囲2キロも無いチャツコイ沼だけどひょうたん沼のススキや萱の湿地帯にぶつかるのさ、タニシやカラス貝、ドジョウにフナ、谷地ウグイなど色んな生き物が生きていたなぁ、4尺もあるデカイ鯉がこの沼の主で、子供の釣竿なんかは、竿ごと沼に引きずり込んでしまうと云う、どんな釣りの名手が来てもこの主だけは釣れなかったと、そこら辺の人の話しだべさ・・・・昭和になって 周りは田圃や畑になっても 沼の周囲は菅や葦、ススキが水の中にまでおがってて、でっかい柳が何本もおがってて、そん中に魚釣りの踏分道が在るだけの泥炭沼のまんまだったんだとさ。
北キツネ そったら チャツコイ沼だけど 何だか奇妙な話が一杯あるんだわ・・・ある時 街の若いもんが釣りをしに行った時、沼の向こう側で若い女が手を振ってるんだってさぁ・・・なんぼ声を掛けても、返事もしないで手を振るばっかりなんだとさぁ・・・だから 気になって葦やススキを分けてぐるっと回って行っても、同んじとこさ戻ってしまうんだとさ・・・・ほんで 肝焼いて、沼を真直ぐ渡ろうとして深みに嵌って死ぬとこだったんだって・・・・また 他の爺様の話だけど お陽様が西に傾き掛ける頃 今まで空を映していた真っ青な水面が突然緑色に為ったり、夕陽みたいに真っ赤に染まったりするんだって・・・
今のひょうたん沼パークゴルフ場 近くの農家の話なんだけど。ひょうたん沼の西の水揚げ場の近くには、随分 古くからキツネの夫婦が暮してるんだとさ・・・その夫婦のキツネは大人しくって、普段から悪さをする事も無いから、近所では気にする人も居ないんだけど、子育ての春から夏の終わりまでは、ひょうたん沼の釣り人が気に為る見たいで、時々 鳴き声が聴こえたみたいで、そんな時は きっとなんか起こるってさ・・・何の事は無い キツネに化かされた話なんだわ・・・・
 平成の今は公園化されて道路から東にはテニスコートが在り、西には市民パークゴルフ場が在って、西の外れには水揚げ小屋があったんだけど、去年の秋に壊されて無くなってしまった。周囲の畑は玉葱と麦の耕作地で、少し離れた所では 水田も健在で、空知の穀倉地帯のど真ん中です。今でも、畑の隅には開拓当時の大木の枯れた根っこが山に為って積まれていた。黄昏時には大きくなったポプラが夕陽に輝いて、キツネの鳴く声が聴こえて来きそうです。 おしまい


02 緋ドジョウの話
 そうさなぁ ちょこっと昔の事だども、今から百三十年も昔の湯浴澤の辺りは春楡やガンビや楢の原始林と泥炭の谷地原ばっかりの処でなぁ、幌向太(ホロムイブト)から市来知(イチキシリ)辺りまでのアイヌ道と、夕張(ユゥ~パリ)から孫別(マゴペツ)に出て幾春別川を渡って晩生内(オソキナイ)から増毛(マスケ)に抜ける鹿道みたいなマタギや山師の通る踏分道しか無かった頃、奔利根別川(ポントネペツ)とか幌向太(ホロムイブト)の近くにアイヌの部落がちょっこしは在ったんだとさ、市来知(イチキシリ)の山奥に、幌内(ホロナイ)と云う所が在って、其処にはいい媒炭(石炭)が出るという事で、お国の開拓使が小樽から札幌、そして江別太、幌向太、幌内へと春楡やガンビや楢の原野を切り開いて谷地原やでっかい川を超えて汽車ば走らすのに線路を作るんだとさ・・・ 明治末の岩見沢鉄道工場と幾春別川 そんで 内地から和人の土方や工夫がガッパリやって来てさ、幾春別川の側さ飯場をこさえたんだとさ、それが昔の湯浴澤の駅の在ったとこの直ぐ近くだとさ、それから暫らくしたら市来知に集治監とまでこさえて、囚人まで連れて来て、道路や線路をこさえたんだとさ・・・そんなもんだから、人手が足りなくって近くのアイヌまで駆り出してテコ(手伝い)に使って、飯場の飯炊きにはメノコ(アイヌの女)まで引っ張り出して使ったもんだとさ・・・飯場は荒くれ者の土工が多かったけど、中には侍崩れの現場監督も居ったんだって・・・男達はみんな嬶や女房は内地に置いて来て、元気盛りの息子の始末には手を焼いてたんだとさ・・・だから 飯場の飯炊きメノコなんかは格好の餌食になったんだべさ、土工から監督までアイヌの女を騙して弄んでおもちゃにしてたんだとさ。  ある時 侍崩れの現場監督に可愛がられていた、めんこいメノコが妊娠したんだって、監督は始末に困ってしまって、そのメノコを何かと苛めたんだとさ、そんなこんなで可哀相に、そのメノコは気が触れてしまって、ある雨の晩 幾春別の川さハマって死んで居たんだってさ、飯場の噂では あの現場監督が始末に困って川さ突き落としたんでないかって、もっぱらの噂だったんだって・・・・今にあのメノコの祟りが来るぞって云ってたら、それから 半年ばっかり経った大雨の晩に、ふらっと出ていった、現場監督が何時まで経っても戻って来なかったんだってさ。 緋どじょう 翌朝に見付けたんだけど、大雨で水嵩の増えた幾春別の川で、あのメノコのハマってた同んなじ処で現場監督は死んでたんだってさ、岸に引張り上げた現場監督の胸からニョロニョロって、でっかいきれいな緋ドジョウが出て来たんだってさ、それから また暫らくして 今度はメノコを苛めた土工も同んなじ処で死んだんだって・・・そして その土工の胸からもニョロニョロって、でっかいきれいな緋ドジョウが出て来たんだってさ、それからはここら辺で見掛ける、緋ドジョウはここで死んだメノコの化身だと云わる様になったんだとさ。だから 今でも湯浴澤の側溝や田圃の畦なんかには時々、緋ドジョウを見かけるんだって。
明治末の岩見沢鉄道工場と幾春別川  そしてメノコの死んだその場所は 今の湯浴澤の駅の直ぐ北側で、昔は鉄道官舎がいっぱい在ったとこなんだけど、今は綺麗に区画整理されて、更地に為っているべさ、直ぐ近くに、駅の北口があって、その横には古いレンガの蒸気機関車の工場だったでっかい建物があってさ、今は何処にそんな川が在ったのか面影も無いけれど、昔の古い地図では確かに川になってるんだとさ・・・・その頃のアイヌは和人から随分 苛められだって云うからこの川にもレンガの建物にも、アイヌの恨みが埋まっているかもねぇ・・・・・ 前からチョコツト噂は在ったんだけど、雨で暗い晩なんかに、レンガの建物の陰で傘も差さずに立っている若い女を見たって云う人が居るんだけど・・・ まさか・・・ まさか・・・ とは思うけど、緋ドジョウに変わり果てたメノコの亡霊かなぁ・・・安らかに成仏する事を祈るばっかりだよネェ・・ナンマイダブ・・ナンキイダブ・・・・おしまい
 追記・・この話はむかし、湯浴澤で生活を始めた頃、明治の中頃にここで生まれ育ったと云う、近所のお婆さんの話を元にわたしが少し書き足したものです・・・・だから 本当の事は判りません・・・・

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03 お茶の水物語

 まぁ ちょつこら 俺らぁの話も聴いてけれや 昔から湯浴澤の北側は谷地原で もっとその昔は海だったて話でないかい。そこさ支笏湖の火山灰だの、幌向川や幾春別川の土砂なんが積もったり、湿原に生える草や木が積み重なって泥炭になって何メートルも積もったり、やっとこさ今の見たいな地形になったんだってさ。  お茶の水ってとこは 幌向と湯浴澤の中間くらいで少し北に外れた空知原野の泥炭地帯のど真ん中だべさぁ、元々湿原だもんだから どっこば掘っても直ぐ水は出るんだけど、赤い泥炭の水だもの、変に油臭くって「かなっけ」があって、とても飲めるような水ではないべさ、そんな赤茶けた水だから お茶みたいな水と云う事で「お茶の水」に為ったと云う話があるくらいなんだ・・・。 今の御茶の水神社 だからさぁ そんなとこに開拓に入った人達は、飲める水をめっけるのにやったら(矢鱈)苦労いしたって話だょ、今日の話しはさぁ そんな大事な飲み水の話なんだわぁさ・・・、 初めてお茶の水に開拓に入った人達は谷地の原っぱの原始林の中で、どっかにいい水は出ないかって、あっちこっちと随分探したんだけどみっからず、雨水を集めてやっとこ飲み水を確保する位苦労をしてたって話は何回も聴かされたよぉ、そんな開拓者の中に、特に水捜しに熱心なちょこっと歳を取った男が居ったんだとさ、日々の開墾の合間に近くの沼に行ってみたり、古い川の側を掘ってみたり、でも人の飲めそうな水は湧いて来ないだってさ。ある晩、水探しに疲れた果てた、男が暖炉の側で転寝をしてしまったのさっ、そして そん時に へんてこりんな夢を見たんだってさ、夢ン中に痩せこけた爺さんが現れて、おめえ見たいに闇雲にそっこらじゆうを掘っくり返したって水なんて出るもんじゃねぇ、先んずは水の道をめっけろ、水の道は良い木が育つんだよ・・・そう云って夢ん中の爺さんは消えてしまったんだとさ・・・。
今の御茶の水名産の味噌だよ朝に為ってよぉく思い出してみると、昔 未だ幼かった頃に可愛がってくれた祖父だったようなんだってさ、孫があんまり苦労してるからあの世で肝焼いて出て来たんだべか・・・  それから数日して、谷地ダモのでっかい林を思い出して、そこらを歩いてみたんだとさぁ・・・あの爺さんの云ってたとこはこったらとこなんかなぁ・・・なんて思いながら 一番でっかいタモの木を眺めていたら藪に足を取られてこけてしまったんだって・・・そんなくぼ地に鹿の彫った足跡見たいのがあったので、開拓者の男も少し掘って見たんだとさ、そしたらば二尺も掘らない内に水が滲みて出て来て、もうチョツト掘ったらば綺麗な水がコンコンと沸き出て来たんだとさ。その次の日家族も連れてまた谷地ダモの林に行って見たら綺麗なうんまい水が沸いて居たんだとさ・・・それで家族は沢山水を汲んで家にもって帰り、ご先祖様の仏壇に供えて爺様さ報告したんだとさ、それからは部落のみんなもその水を使って旨いお茶が飲めるようになったので、御茶の水と云われる様に為ったんだとさ・・・何だか本当みたいな、嘘みたいな話だけんど、昔の事だものほんとの事は誰も判んないべさぁ 。 おしまい 

一、 マリモの話
 この話は 昔 おらほの婆さまが聴いたって云う話とおらほが他所さまから聴き齧った話なんかが、ごちゃまぜに為ってしまうけど、おらほも随分昔に聴いた話だども ほんとも嘘もなんも判んないけど、そんなことば云ってた爺がおったなぁって聴いてくれ・・・・。ペカンペ(菱)の葉  昔なぁ、阿寒湖には水面が見えない位いっぱいに「ペカンペ(菱)」が、おがってたんだとさぁ、んだけんど 湖のカムイは何故か この「ペカンペ(菱)」が大嫌いなんだとさぁ・・・「(菱)が湖に茂れば水が汚れるし、その実を摘みに人間どもが寄って来てますます水を汚してしまう、ふんとに迷惑な奴等じゃ」と邪魔者扱いにしてたんだとさぁ。「ペカンペ(菱)」たちも湖のカムイに嫌われ肩身が狭くて葭原の陰や小さな入り江に隠れるように暮らして居たんだけど、ある日の事 湖のカムイの散歩中に「ペカンペ」の実を踏んで足にその棘が刺さってしまったんだとさ・・・湖のカムイは激怒して、そこらに在った「ペカンペ」を掻き集めて地上に放り投げてしまったんだってさぁ・・・ペカンペ(菱)の実じぃ~っと我慢にガマンを重ねていた「ペカンペ」たちも とうとう我慢も限界に来て、「湖のカムイ」にチャランケ(直談判)付けたんだけど神の口には敵わないので、とうとう戦いを挑んだのさ・・・そこいらの藻を丸めては「湖のカムイ」に投げ付けて、湖の藻とか水草とか みんな掻き集めて「湖のカムイ」に投げ付けて、もう 投げる物も丸める物も無くなって、「ペカンペ」達は阿寒湖を出て行ったんだって、それからっていうものは、風が吹くと丸く為った藻が岸辺に集まり、雨に為ると丸い藻が湖の底に沈み、漁の邪魔になってアイヌの連中も「トーサラウンペ」(湖の妖怪)と云って嫌な物の一つだったみたいだけど<それから和人が蝦夷を占領してアイヌの生活は困窮し、阿寒湖のマリモ 大正の時代になって、生活に困っていたアイヌの民を見かねて、コタンの長老が、何とか生活の糧に為らないかと「マリモの伝説」を作りアイヌの秘話として男女の魂がマリモになったとして「マリモ祭り」を始めたって事らいしいよぉ・・・。  今ではこっちの話の方が有名になって、阿寒湖のアイヌの人々も随分助かってるみたいだから、それはそれで良いんじゃないかい・・・これで おらっほのマリモッコの話はお仕舞いだ・・・ おしまい 

二、鳴き砂と鯨岩

 俺ンチのいい加減な話ば 聴きたかったら聞かせるべぇ・・・けんど 何処までほんとか俺だって知らねぇから、後で嘘だのほんとだの云ったって知らねぇからなぁ・・・(^^ゞ  その昔 南部藩のモロラン陣屋の在った辺りを 今は室蘭と云って製鉄所や石油コンビナートが在るけど、その室蘭の浜にイタンキ浜という砂浜がある、アイヌの人はここを(ハワノタ)「声のする砂浜」と云っていたってさ、砂を踏むと「キュッキュッ」と音のする鳴き砂の海岸だったのさ、近頃は砂が汚れて「キュッキュッ」と鳴かなく為ったとか聴いた事が在るけれど、海水浴場にも為ってる綺麗な砂浜なんだけど、昔っから色んな事が在ったみたいだよこの浜は・・・・。イタンキ浜  イタンキ浜なんて日本語にゃ無いから、アイヌ語に決まってるわなぁ、アイヌ語で「椀」の事だってさぁ、あの飯や汁ゃ喰い物を入れる木の器の事だべさ・・・お椀の浜なんて何て変てこな名前なんだべ・・・ここにはアイヌのとっても悲しい遣り切れない伝説があんのさ、 ずぅ~と昔の事だけんど 日高アイヌが不漁と飢饉に襲われて喰うものも無くなって、白老アイヌの助けを求めてやっとの思いで来て見れば、こっちは流行り病でもっと酷い状況なので、どう仕様も無くホロペツの方へ流れて来たんだけど、ここも大飢饉で村人達は死ぬか逃げ去った跡だったのさ。人々は帰るに帰られず、寒さをしのぎに枯れ木を燃やしたりウサギや鼠まで探して生きるのに必死だったのさ。どうにかこうにかイタンキの浜まで辿り着いた一行は、沖に黒い塊を動いてるのをめっけたんだって、きっとクジラだぁ 寄り鯨だと一行は大喜びで浜で火を焚きその夜の開けるのを待ったんだとさ、だけど鯨は中々岸によって来ないのさっ、餓死しそうな人々は鯨が岸に打ち上げられるのを今かイマかと待ち続けたんだとさっ、沖の黒い塊はさっぱり岸には寄り付かず沖にあるまんまなんだって・・・、とうとう近くの薪も無くなり手持ちの食い物も無くなり、大切な椀までも薪に焚いてしまい ついには飢えと寒さで一人と残らずに死んでしまったんだとさ・・・鯨  そこの土地のもんなら直ぐ判るのに 沖の黒い塊はただの岩だったのさ それ後のアイヌの人たちも沖の岩を「フンペシュマ(鯨岩)」と呼びこの浜をイタンキ浜って云う様になったって話だよ~  それから 何百年かたった昭和二十年代の末頃、戦争が終って十年も経たない時にイタンキ浜の鳴き砂の中から骸骨が一杯出て来たんだって、百以上もの人の骨が埋まってたんだ「キュッキュッ・キュキュ」って泣いたんだって、一時は大騒ぎに為ったんだけど、戦時中に製鉄所や港作りに強制労働させられ殺された中国や朝鮮の人達だったんだ、それから随分後の事だけど その犠牲者の遺骨なんかは殆んど祖国に帰したみたいだよ、だけど今でも何ぼか近くの寺に残ってるって話も在るんだけど、ほんとの事は判んないよ・・・ ただ 今でもイタンキ浜近くの高台にはさぁ、遺族の人や地元有志人が建てた追悼碑が在るってさ、そんな酷い事をした日本人も居ったのさ、戦争の所為だけには出来ないネェ・・・人間ってほんとに怖いネェ・・・ 中国や朝鮮の犠牲者に合唱しておしまいだぁ


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